和魂洋才 かつて中国の文化を受け入れながら日本の心を持ち続けた、いわゆる「和魂漢才」の心構えと同じように、幕末日本の知識人たちは、科学技術においては西洋に学ぶべきだとする一方、道徳の面に関しては欧米を「私欲」(自らの利益を最優先とすることを指す)の国と見なし、「公義」(聖賢の教えを守って国のために力を尽くすことをいう)の国である日本の優位を主張していた。これを「和魂洋才」という。つまり、積極的に西洋の新しい技術を導入していったが、思想や文化など、精神面まで受け入れることには抵抗を感じていたのである。
「私欲」の解放 やがて、西洋の科学技術とその思想文化がもとより表裏一体の関係にあることが分かり、さらに欧米諸国が先進国になれたのもその文化が優れていることに基づくところが多いと考えられるようになった。こうして明治維新後、西洋の技術とともにその精神をも取り入れるという、「文明開化」の気運が盛んになってきた。 これまで批判的なものとなっていた西洋の「私欲」については、「私」と「欲」に分けられる形で、「私」の部分は「忠君孝親」という古い封建期の愛国心を、「自主愛国」という新しい近代国家の倫理観に発展させたのに対し、「欲」の部分は物質重視の立場から、資本主義経済を成り立たせるものとなった。
その例としては、国会の開設を求める板垣退助(1837-1919)らによる自由民権運動や、人間の物欲を文明開化の要素とする福沢諭吉
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(1834-1901、幕末明治の思想家・教育家)の主張などが挙げられる。
1874(明治7)年の板垣退助らの民撰議院設立建白書に端を発し、人民の権利や自由の拡大を目標とした一連の政治運動が行われた。福沢諭吉は『西洋事情』や『脱亜論』などを書いて啓蒙思想を説く傍ら、1868(慶応4)年に江戸の洋学塾を慶応義塾(現・慶応義塾大学の前身)と改名し、教育活動にも尽力した。
明六社 明治政府が欧化政策を推し進めていくのに並行して、民間においても欧米の新しい思想や学問が紹介・提唱されるようになった。1873(明治6)年、アメリカから帰国した森有礼(1847-89)によって明六社が結成され、演説会と機関誌『明六雑誌』を中心に啓蒙的な言論活動を展開していった。1875(明治8)年の末に解散されたが、啓蒙活動の先導者として新しい文化を求める当時の知識人たちに大きな影響を与えた。
一方、「天は人の上に人を造らず」と人間の平等を説いた福沢諭吉の『学問のすゝめ』(1872)をはじめ、民主主義を唱えて後の自由民権運動の発展に影響を与えたとされる植木枝盛(1857-92)の『民権自由論』(1879)や中江兆民(1847-1901)の『民約訳解』(1881、ルソー Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778、フランス啓蒙期の思想家の「社会契約論」の抄訳)などが刊行された。
福沢諭吉 特に福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、「独立の気力なきものは国を思ふこと深切ならず」というように、国のためにも個人は独立すべきだとし、さらに列強からも日本の独立を守らなければな
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らないと主張している。主従関係など「依存」の概念を主とする東洋の封建的愛国心と一線を画す「独立」の重要性を強調するこの新しい近代的愛国心の提唱は、明治の知識人たちに大きな影響を与えた。また、かつて好ましくないとされた金銭や物質への追求も、福沢諭吉にあっては国を強く豊かにするためのものとして正当化され、さらに板垣退助らによって資本主義の提唱として具体化されるに至った。
ただし、福沢諭吉自身も『文明論之概略』(1875)で、「国の独立は目的なり。今の我文明は此目的を達するの術なり」と言明しているように、このような西洋文明の摂取は、あくまでも国の独立をもたらす「富国強兵」の手段であった。その結果として、憲法の発布(1889)や国会の開設(1890)が確かに実現され、同時に資本主義による産業の発達も成し遂げられた。後述するように、対外的危機感から生まれた日本の近代化は自ずから西欧のそのような内発的なものでなく、むしろ外発的な性格を多分に帯びなければならなかった。
神道国教化 武士政権の終焉を告げるべく、維新政府は王政復古を唱え、「神武創業の始」(記紀伝承上で初代の天皇とされる神武天皇の治世)への回帰を目指した。神の子孫としての天皇の親政を強調することによって、その神格化を図るとともに、教政一致の立場から神社制度を通じて神社を政府の管理下に置いた。神道によって国民を教化しようとして1870(明治3)年に大教宣布の詔を出すことをはじめ、戊辰戦争(1868〈慶応4/明治元〉年から翌年にかけて行われた、明治新政府側と旧幕府側との戦い)の戦死者を祭る招魂社を1879(明治12)年に靖国神社に改めることや、天長節・紀元節(前者は天皇誕生の祝日、後者は神武天皇即位〈2月11日〉の祝日)を国の祝祭日と定めることなども、神道国教化を確立させるための一連の政策であった。
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神仏分離 また、1868(明治元)年に神仏分離令が出されたことによって、神社と寺院がともに祭られるという、従来の神仏混淆の状況が一変した。神道を国教にする政策の一環であったが、それまで仏教の僧侶に支配されていた一部の神社の神職が「廃仏毀釈」の行動を起こし、寺や仏像などを破壊する、この運動が全国に広まり、仏教界は大きな打撃を受けてしまった。
キリスト教禁制の撤廃 なお、江戸時代以来の切支丹禁制が引き続き、同年の「五榜の掲示」(五倫の道を勧めることをはじめ、徒党や強訴の禁止などを示した五つの立て札)にもキリスト教信仰の禁止が明記され、信者への弾圧も続いていたが、欧米諸国から激しい抗議を受けた。このままでは不平等条約(1858年の日米修好通商条約をはじめとする、領事裁判権や協定関税などを認める一連の対外条約)の改正の交渉にも支障が生じると判断され、そして、何よりも文明開化に伴う西洋の思想の流入はもはや避けられなくなったので、ついに1873(明治6)年に禁教令が解かれ、信教の自由が許されることとなった。
日の丸 明治政府は国家神道を確立させるために新たに祝祭日を定めるとともに、その日には日の丸を掲げることも励行した。日の丸、すなわち日章旗は文字通り太陽をかたどったものである。日本のシンボルとされているのは、日本人が農耕民族であることや、皇室の祖神が日の神こと天照大神であることなどと関わりがあるからである。
日の丸は古くから使われてきたが、幕末には外国船と区別をつけるために、島津斉彬(1809-58、幕末の薩摩藩主、開国派)の申し出によって日本の商船に掲げられることとなった。そして、1870(明治3)年の太政官布告によって正式に日本の船印と定められ、国旗としての性格を持つようになった。しかし、太平洋戦争中に国民の意欲を高めさせるシンボルとして使用されたので、今では日の丸掲揚に反対する人が少なくない。
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君が代 日本の国歌「君が代」も薩摩藩で愛唱されていたものであり、国内外の儀式で歌われる歌が必要だということから、明治政府の官僚に薩摩藩出身の者が多かったこともあって、歌詞としてこれが選ばれた。もともとは『古今和歌集』(醍醐天皇の命を受けて紀貫之らが十世紀初に撰進した、最初の勅撰和歌集)の賀の巻所収の、
わが君は 千代に八千代に さざれ石の
巌となりて 苔のむすまで
という、相手の長寿を祝う短歌の字句を取り入れたものであった。ただ、初句の「わが君は」の代わりに、平安時代末期に歌われるようになった、「君が代は」のほうを採用した。そして、「君」という呼称も、単なる二人称という本来の意味から離れ、専ら天皇を指すものとなった。
1893(明治26)年からすでに国内外の儀式歌として指定されているが、実質的に国歌として扱われるようになったのは、1930年代からであった。敗戦後は、天皇を賛美する内容であることを理由に、自粛する動きがあったが、1950(昭和25)年には公式行事に再登場し、その後も国家の祭典や学校の式典、祝祭日などに国歌として歌われている。なお、法律で正式に日本の国歌として定められたのは、国旗の法制化と同じく、つい最近の1999(平成11)年であった。
明治初期の文壇では、仮名垣魯文(1829-94)の『西洋道中膝栗毛』(1870-75、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の主人公の孫がロンドンの万国博覧会へ行くという話)や『安愚楽鍋』(1871-72、手法では式亭三馬の『浮世風呂』『浮世床』に倣ったが、当時話題の牛鍋屋を舞台とした)など、文明開化の世相を反映した作品が書かれたが、現実
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の滑稽なパロディーや言葉遊びなどが特徴で、内容も文体も江戸時代の戯作文学の流れをくむものであった。
翻訳小説・政治小説 明治十年代になると、自由民権運動の隆盛を背景に、翻訳小説と政治小説が現れた。前者には丹羽純一郎訳『花柳春話』(1879-80、ブルワー・リットン〈Edward Bulwer-Lytton, 1803-73、イギリスの小説家・政治家〉原作)や、川島忠之助訳『八十日間世界一周』(1879-81、ジュール・ヴェルヌ〈Jules Verne, 1828-1905、フランスの科学・冒険小説家〉原作)などがあり、立身出世を夢見て遠方へ飛んでいこうとする当時の青年たちに刺激を与えた。政治小説では矢野龍溪の『経国美談』(1884-85、古代ギリシアの政治世界を舞台とする)や、東海散士の『佳人の奇遇』(1886-98、明治新政府に反抗して滅ぼされた会津藩の藩士を主人公とする)などが挙げられる。西洋の政治思想や宣伝を目的とした、「真面目」なものという意味で、近代小説の端緒とも言えるが、文体に関しては漢文訓読体が用いられた。
坪内逍遥 理念の面において文学の近代化に先駆的な役割を果たしたのは、坪内逍遥(1859-1935)の文学論『小説神髄』(1886-87)である。大学でシェークスピアなどの英文学に接した逍遥は、従来の勧善懲悪の文学観を否定し、文学の独立性を強調するとともに、創作の手法として「人情」(人間の心理)や「世態風俗」(現実の「模写」)、すなわち写実主義を唱えた。例えば、近世小説の代表作である『南総里見八犬伝』の主人公たちは、「仁義八行の化物にて、決して人間とはいひ難かり」と批判されている。ただし、逍遥の理論は文学の近代化という外部の要請に応えたものであっても、必ずしも戯作文学の愛好者である彼の内発的な要求から来るものではなかった。
このような矛盾は日本の各分野の近代化に共通する大きな課題であった。逍遥自身がその理論を実践しようとして書いた『当世書生
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気質』(1886-87)も、人間の内面が十分に描かれておらず、また文体においても会話には口語体の利用が試みられたものの、地の文には七五調的なものが残っており、戯作性を帯びた失敗作とされている。
二葉亭四迷 写実主義の最初の成功作は二葉亭四迷(1864-1909)の『浮雲』(1888-90)である。すでに文学論『小説総論』(1887)で「虚相」、すなわち目に見えない内面を描く必要性を説いた四迷は、『浮雲』で古い儒教の倫理と新しい西洋の思想との板挟みに悩む主人公の内面をリアルに描き出している。文体においても「だ」調の言文一致体となっている。
実用性の推進を目的とした書き言葉の改良の動きも文学の近代化に大きな影響を与えた。早くも三遊亭円朝(1839-1900)の落語『怪談牡丹燈籠』(1885)の速記本に、口語体による記録方法が試みられており、速記者の若林珊蔵(1857-1938)も序文で「我国の言語上に改良を加へ」ようとする、文体改良の意図を表明している。小説における言文一致体の早い例は、『浮雲』のほかに山田美妙(1868-1910)の『夏木立』(1889)があり、「です」調となっている。やや遅れて、当初言文一致体に批判的だった尾崎紅葉(1867-1903)も「である」調で『多情多恨』(1897)を書いた。また、若松賎子(1864-96)訳の『小公子』(1891-93、フランシス・イライザ・バーネット〈Frances Eliza Burnett, 1849-1924、アメリカの女性作家〉原作)の「ました」調も名訳として知られている。
逍遥の理論が提出されると同時に、1886(明治18)年に結成された硯友社の同人たちによって、元禄時代の井原西鶴が再評価され、古典復興の機運も起こった。古典と緊密な連続性を保っている彼らは、写実主義という新しい文学の方法に示唆を受けながら、その理念のモ
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デルとして西鶴のリアルな文体や手法を取り入れた。尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』(1890)や幸田露伴(1867-1947)の『風流仏』(1890)などがそうである。ただし、紅葉は文章表現の技巧を通して写実を実践しようとする傾向があり、人情に関しては表面的にしか写し出していなかった。何をどのように描くかが問題である近代的な写実主義と、描くための手段である文章の技法を主題とする前近代の「写実」との相違が浮き彫りにされた事例と言えよう。
一方、露伴は引き続き『五重塔』(1892-93)などを発表し、精神を養う東洋の世界観を示すことで近代西洋の物質文明に対抗し続けた。反近代の代表的な作家の一人に数えられる。
日本における近代美術の展開は西洋文化の刺激に負うところがあり、江戸後期の洋画家司馬江漢(1747-1818)らの西洋志向を継承したものが当初少なくなかったが、明治初年の万国博覧会に出展した日本の工芸品が意外に好評を博したため、伝統美術の奨励も明治政府の主要な政策の一環となった。
岡倉天心 特に東京大学講師として来日していたアメリカの学者フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853-1908)とその助手を務めた岡倉天心(1862-1913)らによって、狩野派(水墨画で知られる日本画の家系。狩野正信(1434-1530)を始祖とし、中世後期から近世にかけて武家の支えを得て栄えた)を軸とした新日本画創作の運動が始まった。狩野芳崖(1828-88)が「悲母観音」を描いて狩野派の復興に努め、橋本雅邦(1835-1908)も「竜虎図」
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で注目を浴びた。1890(明治22)年に日本美術学校(現・東京芸術大学美術学部の前身)が設立され、天心は校長に就任した。
やがて反対派と対立して校長の職を辞した天心は、1898(明治31)年に東京美術院を創立し、横山大観(1868-1958)や菱田春草(1874-1911)などを育てた。日本の美術教育に力を尽くす傍ら、天心は日本が保有する東洋の伝統を世界に伝えようとした。詳しくは後述するが、英文で執筆された『東洋の理想』(1903)や『茶の本』(1906)などにその思想が凝縮されている。
黒田清輝 洋画に関しては、1889(明治22)年に浅井忠(1856-1907)らは明治美術会を組織し、暗い色調を多用していたが、フランスから帰国した黒田清輝(1866-1924)によって、1896(同29)年に白馬会が創立され、外光主義(pleinairisme, 19世紀のフランスの画派で、明るい外光の効果を重視する戸外制作が特徴)的な作風が洋画の主流となった。夫人をモデルに描いた「湖畔」がその代表作である。
一方、浅井忠門下の満谷国四郎(1874-1936)らは太平洋画会(1902)を結成して白馬会に対抗し、浅井忠も関西美術院(1906)を開いて安井曾太郎(1888-1955)らを育てた。
1872(明治5)年に発布された学制の中にすでに「唱歌」が入っていたが、教員も教材も整っていなかった。新鋭の教育研究者伊沢修二(1851-1917)が幼稚園で唱歌ゲームによる教育を試み、1875(明治8)年に文部省に報告書を提出した。その中に「ちょうちょうちょうちょ/菜の葉にとまれ」で始まる「胡蝶」などの唱歌が紹介されている。旋律は記されていないが、歌詞は各地の童歌を取り入れたもので、また、ゲームを通して科学などの知識の習得ができたということも付言されている。
『小学唱歌集』 その後、伊沢はアメリカに派遣され、西洋の唱歌の旋律で日本の童歌を歌うことが可能だということを
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発見した。帰国後、日本初の音楽教科書『小学唱歌集』初編(1883)を編んで、「ちょうちょう」の歌詞に「ボートの歌」の旋律(「ソミミファレレ」で始まり、中国語の「小蜜蜂」もこの歌の旋律を採用)を当てるとともに、二番の歌詞「起きよ起きよ/ねぐらの雀/朝日の光の/さきこぬさきに……」を付け加えた。この唱歌の教育意図については伊沢は、蝶のように自由に遊べる子供たちに「国恩の深」さを感じさせ、また、雀のように早く起きて学業に励ませるところにあると述べている。唱歌によって音楽を楽しむものでなく、実用的なものを叩き込み、さらに愛国思想を植えつけるのが、近代の音楽教育の目的であった。
『小学唱歌集』の後に刊行された『小学唱歌』や『尋常小学唱歌』などでは、日本人作曲・作詞の唱歌が全体を占めるようになり、音楽教育は広く全国に普及していった。一方、1887(明治19)年の東京音楽学校の設立によって、専門的な音楽教育も始まり、「荒城の月」や「花」などの名曲で知られる滝廉太郎(1879-1903)をはじめとする日本の作曲家が現れるようになった。
(文責:黄智暉)
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日本史研究会編『講座日本文化史』、三一書房、1971年
石田一良編『日本文化史概論』、吉川弘文館、1978年
久保田淳編『日本文学史』、おうふう、1997年
五味文彦ほか編『詳説日本史研究』、山川出版社、1998年
中澤伸弘『図解雑学日本の文化』、ナツメ社、2002年
小森陽一ほか編『近代日本の文化史』、岩波書店、2002年
大久保善哉『日本文化論の系譜』、中央公論新社、2003年
岸俊男ほか編『週刊朝日百科日本の歴史』、朝日新聞社、2004年
遠藤嘉基、池垣武郎『注解日本文学史』、中央図書、2005年
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